遍照寺の灯籠流し

 京都市右京区嵯峨広沢町にある「広沢池(ひろさわのいけ)」。全周約1.3km、東西南北それぞれ約300mの大きさを持ち、日本三沢のひとつにも数えられるこの「広沢池」では毎年8月16日になると、お盆の精霊送りの行事として「灯籠(とうろう)流し」がおこなわれている。大きな池一面に色とりどりの流し灯籠を浮かべ、ご先祖様の霊をお送りしている。去年の夏も約1800基が浮かべられ、幻想的な雰囲気の中、赤・白・黄・青・紫の五色の灯篭が水面にゆらめいた。
 
 「広沢池」は別名「遍照寺池(へんじょうじのいけ)」とも呼ばれ、その起源は平安時代中期の遍照寺建立にまで遡る。宇多天皇の孫にあたる寛朝僧正が広沢池北西部にあった湖畔の山荘を、改めて寺院にしたのが989(永祚元)年のことである。嵯峨富士の名を持つ端麗な遍照寺山を映す大きな溜池を庭とし、池畔には多宝塔、釣殿、八角堂等数々の伽藍(がらん)を有する広大かつ荘厳な寺院として造営したのである。 
 平安時代末期に編さんされた説話集「今昔物語」には、そんな寛朝僧正にまつわるエピソードが収められている。陰陽師安倍晴明が広沢の寛朝僧正を訪ねた折の出来事。晴明が呪術とともに蛙(かえる)に草葉を投げかけると途端に蛙が潰れて死んでしまったというはなし。他にも、寛朝僧正が強力(ごうりき)であり、盗人を蹴り上げただけで、仁和寺の門の棟にめり込ませてしまったというはなしがある。
 
 その後、応仁の乱で廃墟と化してしまった遍照寺であるが、江戸時代の1633(寛永10)年に池南方の現在地に移されることとなった。
 
 本尊の十一面観音立像と不動明王座像はいずれも平安創建期より伝わる仏像とされ、現在は、国の重要文化財にも指定されている。
 
 広沢池と遍照寺。その歴史ある意外な関係性を知り、新しい発見のあったひとときであった。