魯山人が愛した縁側空間

 陶芸や書、絵画などで才能を開花させ、同時に美食家としても知られる、北大路魯山人。明治16(1883)年上賀茂に生まれた魯山人は、中京区にある梅屋尋常小学校を卒業後、「自然美礼讃一辺倒」を信条に、生涯をかけ美を追究した20世紀の芸術家であった。そんな北大路魯山人が度々足を運んでいたという、左京区山端にある料理旅館「山ばな 平八茶屋」を訪れる機会に恵まれた。
 
 天正4(1576)年の創業以来、435年の歴史を重ねる老舗料亭は、かつては若狭街道鯖街道)沿いの茶屋として行きかう旅人に、名物の麦飯とろろ汁を提供していたところに端を発する。街道沿いに面して建てられた母屋は寛政9(1797)年の建造で、7間の間口に「四つ目建ち」と呼ばれる建築様式で建てられた当時の代表的な商屋建築であり、田の字型に配置された和室のとなりに広い土間やかまどがあるのが特徴である。
 
 高野川沿いにある約600坪の敷地内には、四季折々の風情を感じる和風庭園と共に、座敷棟や客室棟が配され、西側にある松ヶ崎東山(五山送り火・妙法の「法」の山)を借景に美しい自然を身近に感じることのできる雰囲気のいい空間が構築されている。
 
 魯山人が好んでよく訪れていたという、奥座敷にある広縁部分。松ヶ崎東山の緑に囲まれながら高野川の流れを目前に眺めることのできる、落ちつきのある縁側は、自然を愛した魯山人にとって、こころ安らぐ時空間であったのかも知れない。
 
 そんな魯山人が、十八代目当主の還暦祝いに持ってきたのは、一筆の書であった。"とろろやの主ねばって六十年 平八繁盛 子孫繁栄"と記されたその書は今も大切に保管されている。
 
 縁側のいすに座り、自然の雄大さに身を委ねながら、しばし、そんな思いをすることのできたひとときであった。