堀川京極と下駄履き住宅

 京都市上京区にある堀川商店街。現在、堀川通りの西側には、上長者町通りから下立売通りまでアーケードがある。この商店街一帯は昭和初期まで「堀川京極」と呼ばれた300軒以上の商店が軒を連ねる大きな繁華街の一画であった。鉄骨アーチの全蓋(ぜんがい)テントと電気照明に私費舗装を備え、東の「新京極」とならぶ市内有数の繁華街・歓楽街として栄えていた。二つの映画館と三つの銀行、二つの市場を中心に、さまざまな種類の商店・飲食店が建ち並び、活気あふれるその姿はさながら不夜城のようであったといわれている。

 現在のように、堀川通りが大きな道幅となったのは、第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年春のことである。空襲による延焼を防ぐ目的で京都府により強制疎開が実施され、御池通五条通とともに学徒動員による道路拡幅工事が実施されたのである。繁栄を極めた「堀川京極」もわずか数日にしてその姿を消すことになった。

 そんな堀川商店街の中核には、現在、通称「堀川団地」と呼ばれる、6棟の鉄筋コンクリート造りの店舗付き集合住宅がある。戦後、強制疎開によって、家や商店を失った元の住人のために、京都府住宅協会(現・京都府住宅供給公社)が昭和25(1950)年から28(1953)年にかけて建設した3階建ての公営住宅である。広い廊下と庭のついた近代的な団地は日本で初めての「下駄(げた)履き住宅」(1階が商店・事務所等、その上層階が住居となっている住宅)ということもあり、当時、全国から多数の見学者が訪れたそうである。

 あれから約60年。近代的であった総戸数160戸の「下駄履き住宅」も老朽化が進み、その活用が議論され始めている。これからの京都にとって、ふさわしい空間創生であってほしいと願うものである。