美しい環境配慮住宅

 大山崎町にある「聴竹居(ちょうちくきょ)」。天王山の麓(ふもと)に今も創建 時の佇(たたず)まいをそのまま残すこの木造住宅は、昭和3(1928)年に建てられた、建築家の故藤井厚二の実験住宅である。和と洋が見事に調和した室内空間は築後82年を経た現在も、色あせることはなく、むしろ美しい輝きを放っているようにすら感じられる。

 美しいモダンなデザインもさることながら、この「聴竹居」は、環境配慮建築として、設計者の藤井自身が研究を重ねた実験住宅の集大成ともいえる自邸であった。

 明治21(1888)年広島県に生まれた藤井厚二は、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、竹中工務店の設計部を経て、京都帝国大学工学部建築学科の講師となる。その間約1年間、欧米を訪れ、当時の最先端の建築設備に触れた藤井は、モダニズムデザインの萌芽(ほうが)と共に、日本の気候・風土に適した住宅のありかたというものを模索することとなる。

 日本三大随筆「徒然草」のなかで兼好法師が「家の作りようは、夏を旨とすべし」とも述べているように、高温多湿な日本の気候風土においては通風や換気は最も重要であるとの観点から、さまざまな工夫がこの「聴竹居」では行われている。現在の 「クールチューブ」の先駈けともいえる屋外の木陰から地中を渡って居間に導かれる導気筒。気密よりも通風を優先した欄間や天井換気口の設置。断熱性に優れた土壁・瓦の採用。日射の緩衝帯としての機能を持たせたサンルームの計画など、自然を感じながら快適に暮らすための工夫が随所にみられる。

 冷暖房や照明に頼りながら気密性ばかりを重視した現在の一般住宅。自然を取り込みながら人間らしく快適に暮らす素晴らしさを、今一度見直してみてはいかがだろうか。

糺の森の式年遷宮

 京都市左京区にある「糺(ただす)の森」は、下鴨神社賀茂御祖神社)のご神域に広がる森である。広さは約12万4000平方メートル(約3万6000坪)東京ドームの約3倍にも及び、平成6(1994)年にはユネスコ世界文化遺産にも登録されている。その歴史は古く太古の昔にさかのぼり、源氏物語枕草子といった多くの文学作品にも登場し、平安京遷都以前の原始の森が今なお残っている。

 「糺の森」にお祀(まつ)りされる下鴨神社には、国宝の東西本殿の他、50棟を超える建造物が重要文化財に指定されており、平安時代の姿を今に伝えている。昨年より、下鴨神社では21年に一度の式年遷宮が行われており、一昨日の3月20日には神様がご本殿から仮殿へお遷(うつ)りになる祭儀である「仮殿遷宮」が斎行されたところである。式年遷宮とは、定められた年限に社殿を新しくし、神様にお遷りいただく神社で最も重要な祭儀であり、今年は伊勢神宮(20年ごと)や出雲大社(60年ごと)においても式年遷宮が行われている。

 下鴨神社における式年遷宮の制度は、平安時代の天喜4(1056)年よりはじまり、途中、中世の戦乱などで遅滞することはあったものの、約1000年にわたり斎行され、今回で34回目を迎えることとなる。江戸時代まではご本殿以下全ての社殿を21年ごとに造り替えていたのであるが、現在は東西本殿をはじめ多くの社殿が、国宝・重要文化財に指定されているため、大修理を行うかたちとなっている。

 21年ごとに人から人へ受け継がれていく伝統と技術。自然の摂理として生物はみな親から子へ世代を重ね受け継がれ、私たちも常に新しい命を祖先、先人から引き継いでいる。太古の時代よりある糺の森にあって、「式年遷宮」もまたその命の流れのなかにあるのではないだろうか。

技と心をつなぐ一枚板

 以前、東山区知恩院門前にほど近い「祇園えもん」という和食料理店を改装する機会に恵まれた。聞けば、27年前の創業以来、包丁一つでこだわりの寿司(すし)を握り続けてこられたご主人が、後継者であるご子息と一緒に新しい寿司海鮮料理店をリニューアルオープンしたいというのである。

 30坪弱の店内には、モミジを配した小さな坪庭も整備されており、四季折々の風情も楽しめる京都らしい雰囲気のある空間ではあった。しかしながら同時に、飾り気のない無難なデザイン構成であったため、どことなく印象の弱さを感じさせるスペースでもあった。

 ただ、長年、カウンターとして使用されていた長さ2間半(約4.5メートル)ほどもある一枚のヒノキ板は大切に使用され、毎日丁寧に手入れをされてきた。厚み3寸(約9センチ)ほどもあるその一枚板は、反りを生じることもなく、むしろ年を経るごとに美しくなっているようにすら感じられた。

 店舗コンセプトに基づき、さまざまなリニューアルプラン案が検討される中、このカウンターだけは残しておきたいと考えた。まるで一枚板が、初代から2代目へ受け継がれる大切な心のバトンのように感じられたからである。

 「ともに仕事をしていくなかで、師匠である父から受け継いだ技と心を大切に、素材と向き合い、感性の赴くままに、自分の料理を究めていきたい」と2代目、安喰一智氏。父親から受け継いだバトンに、更に磨きをかけて輝きを増してほしい。そんな願いをこめた空間創生プロジェクトであった。

新島襄と八重が愛した住宅

 京都市上京区寺町通丸太町上ルにある「新島旧邸」。今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、新島八重と、その夫で同志社創立者新島襄が昭和7(1932)年まで暮らした私邸である。この「新島旧邸」は明治11(1878)年に建造され、今年で築135年を迎える。昭和60(1985)年には同志社創立者の旧居としての価値が認められ、調度・家具類を含めて京都市有形文化財に指定されている。

 建物の周囲を取り囲むように、東・南・西の3面にバルコニーをめぐらし、大きな窓を各部屋に計画した外観は、アメリカ合衆国でイギリス植民地時代に流行した「コロニアル様式」をうまく和風住宅にとりいれたアーリーアメリカンスタイルとなっている。21歳からの9年間をアメリカのボストンで過ごした新島襄にとっては、若い頃、慣れ親しんだ住宅の風景であったのかも知れない。

  当時としては珍しく、住居内には暖炉と煙突を利用したセントラルヒーティングシステムが構築されており、板張りの腰掛式トイレや土間のない板張りのダイニングキッチンも整備されている。室内はフローリングで仕上げられ、椅子やテーブルが並ぶ洋風の趣の居間・応接間が現在もそのまま保存・展示されている。明治初期の住宅としては、最先端の生活様式を導入しながら建築された「新島旧邸」。東南角にある新島襄が愛した日当たりのいい書斎も、机と共に当時の姿をそのまま今に伝えている。

  和洋折衷というよりも、むしろ和に洋をうまくとりいれながら、生活様式に対する工夫が随所にみられる「新島旧邸」。時代の先を読み、自由を愛した新島襄と八重に、平成の現在はどのように映っているだろうか。

小さな町家の大きな通り土間

 以前、中京区車屋町押小路上ルに新しくオープンした、ドーナツカフェ「nicotto & mam」。個性的なその店名は、にこやかに笑う「にこっと」と母親をイメージする「mam」からの造語に由来するものだそうである。

 間口2間半(約4.5メートル)、奥行き4間ほどの小さな敷地に建つかわいらしい京町家は、南側に通り庭をもつ典型的な仕舞屋(しもたや)のつくりである。奥には小さな縁側と坪庭も整備されていた。そのプロポーションを見る限り、建造年代は昭和初期頃であると考えられる。全体的によく手入れされており、1階2部屋・2階2部屋という間取りでありながら、内部空間の広がりを感じさせる京町家であった。

 10坪ほどの敷地に建つ京町家には珍しく、間口1間もあるしっかりとした通り土間を内包し、その存在が室内空間の広がりに大きく寄与する結果となっている。小さな町家であるからこそ、あえて逆説的に大きな土間スペースをとることによって、豊かな住まいを創造しようとした先人たちの知恵が感じられる空間であった。

 この土間スペースを生かしつつ、坪庭を効果的に取り込んだ店舗スペースと厨房(ちゅうぼう)構成を計画した結果、その大切な広がりを損ねることなくうまく現代に継承することができた。小さくとも広がりのある空間は、私たちはよく茶室で経験する。そういった感覚を町家再生に取り込むことのできた新しい事例であったと考える。

 オーナーはオーストラリアに6年間滞在した経験を持つ。自ら体験したドーナツのすてきなおいしさを通じて、家族の笑顔を創造したいとの思いを持ちながら、日々、小さな町家の大きな土間で微笑んでいるのである。

観光地にある観光トイレ

 先日、京都市右京区妙心寺 退蔵院」内にある、京都市「観光トイレ」の再整備を行う機会に恵まれた。現在、京都市内にある合計113ヵ所ある公衆トイレのうち、寺院の境内の内にある公衆トイレは特に「観光トイレ」と呼ばれ、妙心寺の他に、金閣寺、 仁和寺、東寺、平安神宮龍安寺の計6ヵ所に現存している。

 半世紀前の過去、京都市においては、昭和31(1956)年から約12年間、文化観光施設税(通称:文観税)という税金が存在した時代がある。この税金は、昭和60(1985)年から3年間続き、数々の寺社仏閣の拝観停止騒動を起こした古都保存協力税(通称:古都税)と同様に、京都市内の寺社へ支払う拝観料に課税を行う類の地方税であった。昭和40年前後、この文観税を財源に各寺社に整備されたのが、現在6ヵ所残る「観光トイレ」であり、ちなみに岡崎の京都会館はこの文観税を財源として昭和35(1960)年建設されている。

 観光トイレの再整備にあたっては、京都の寺院にふさわしく、「和」の美しさを表現するデザインを目指し、漆喰(しっくい)塗の外観に瓦屋根をあしらっている。御影石(みかげいし)の縁石から玄昌石(げんしょうせき)タイルを四半敷きに敷き込み、軒裏には赤杉のあやめ貼りを計画した。和風照明には、数寄屋造りの指物照明を使用し、「観光トイレ」という小さな空間であるからこそ、本物の「和」のしつらえの構築を心がけた。

 普段、あまり考えることのない公衆トイレのありかた。観光都市・京都にふさわしい上質なトイレ空間こそ、京のおもてなしの心をあらわす、ひとつの作法といえるのではないだろうか。

夢を与える能舞台

 上京区にある「河村能舞台」。この舞台のある烏丸上立売界隈(かいわい)は、室町幕府の三代将軍足利義満が造った「花の御所」の北端にあたるといわれている。現在の烏丸通今出川通上立売通室町通に囲まれた東西1町(120メートル)・南北2町(240メートル)にもおよぶ広大な敷地にあった「花の御所」。足利家の邸宅の他にも、寝殿や、鴨川から水を引き四季折々の花木を配置した美しい庭園が整備されていた。

 義満が、観阿弥世阿弥を支援して以来、600年以上も伝え続けられている伝統芸能「能」。現在のように屋内に能舞台が造られるようになったのは、明治維新後のことであり、それ以前は能は屋外で演じられていた。現在の能舞台に屋根があるのはその名残であるといえる。

 水に見立てた白州と呼ばれる、白い砂利の上に浮かぶように設置された檜(ヒノキ)舞台。手前に写る目付柱の他にワキ柱・シテ柱・笛柱の4本の柱で巨大な屋根は支えられている。正面奥の鏡板には「老松」が描かれ、その右側の切り戸口には「若竹」が描かれている。吉祥の象徴でもある「松竹梅」になぞらえられているのであるが、「梅」は演技者である能楽師自身の「華」がその役割を務めているといわれている。

 簡潔で必要以上の装飾がなく、幕のない能舞台は能独自の「夢幻」の世界を演出する最高のステージである。詩・劇・舞・音楽・美術などさまざまな要素が、演者の動きと一体となって観客の感動を呼び起こす。時代を超えて引き継がれ、人々に夢を与え続けてきた能舞台。私たちの「建築空間」にも学ぶべきところは多いと思うのである。